現在使用中T| バーオーナー×アルバイトバーテンダー

アボガニー調のカウンターは少し傷はあるものの寸分変わらず今日も客を待ち続けている。
カラン、そんな風にグラスに入れていた氷の弾ける音がして顔を上げた。
梅雨も明け、室温は思ったよりも上昇しているのかもしれない。
今宵は週末、忙しくなりそうな予感に、いつも片隅に置かれているキープのグラスも磨こうと持ち上げた。




薄暗く蒼いライトが2つほど点されたそこには暗くて読み辛いが、店名が書かれている。
人通りも多く駅に近い路地を2つほど、奥へと入り込んだ場所にあるバーである。
その店の名は「Sweet talk」。
この界隈は、他にも沢山こういったバーが点在しているから、少し深い話をしたい時、こういう場所を選ぶだろう。
そう、ここは知る人ぞ知る、静かなクラシック・バーだ。
店といっても狭くテーブル席は2つ、カウンターには5人が座れば一杯になるようなこじんまりとした場所。
数段階段を下りた場所に置かれた観葉植物や店内に置かれたセンスの良いスタンドライト、小さな水槽には
店の主を物語るような水くらげが今日もふわりと踊る。

この店の主は、坂田銀時といって、銀髪の天パがトレードマークの男だ。
いっつもだらしないし、時間にはルーズだし、閑古鳥が鳴く日にはカウンターの隅で涎垂らして寝てたりする。
忙しい時でもアルバイトの俺に、「まぁまぁ経験経験」なんて言って任せてジャンプを買いに行ったことがある。
そのときは本当に路地で刺しそうだった。(それをしなかったのは本当に忙しくてカウンターから離れられなかったためである)



今日も今日とて、アルバイトの時間より少し早めに来た俺が開店準備を始めると、寝ぼけた顔をした主は
住居権事務所がある2階より降りてきて、「ちょっと頼むわ〜」と言いながら何処かへ言ってしまった。
……この店はこんな風で大丈夫なんだろうか。
この界隈は、ただでさえバーが多く、商売っ気の無いものは淘汰され、競合できなかったものは潰されていく。
目新しいものを求める若者をターゲットにした店も多くあり、そちらに流れていくのは最早止められない気さえしていた。
時を止めたようなそんなよく言えばアンティーク、悪く言えば古びた時計が、歴史を物語っている。
(…って、今更、振り子時計もねーよなァ………)
ゆらゆら左右に揺れる振り子の大きな柱時計が、スタンドライトの灯りに青白く光る。


バーテンダーの土方は物憂げに磨かれたグラスを手に取り、溜息で曇ったグラスを綺麗に拭いていく。
カッターシャツが真新しく、リボン風のネクタイは結ぶのに慣れないのか少しゆがんでいる。
しかし、ボタンはきっちり留められ、隙がない。
アルバイトとして半年ほど経ち、この店の名物には代わりがないが、いかんせん彼は自分の容姿に頓着していない。
口コミで広まったと言ってもいい細々とした上昇だが、売り上げに貢献している自覚はない。
バーテンダーとして駆け出しであるため、土方の酒はまだ荒削りの所もあるが、真剣な双眸と、洗練された指先に客の評判も上々だった。

土方は時計を見つめ、並べたグラスを数えていたが、それ以上やる事がなくなった。
テーブルも磨いたし、と手持ち無沙汰にクラゲに餌をやりにいく。
照明が暗いため本当に宙に浮いているように見えるそれに魚用の餌を入れてやる。
ふわふわと浮かぶクラゲは、相変わらず自由気ままに、水を飛ぶ。
この店に雇われるようになった日、不意に水槽を見ている俺の視線に気付いたのか主はくすっと笑う。

『こいつはな、あと少しで要らないって言われちゃうところだったんだぜ』

『…要らない?』

『うん、要らないっていって棄てられる予定だったんだけど、…似てるからかな。ほっとけなかった』

何に似ているのか、誰と似ているのか、それ以上聞いても教えてくれなかった。
『名前、……』
『…、え?』
『コイツの名前、なんて言う、スか?』
それに、少し目を瞬いた後、カウンターを挟んで店員と客のように見つめあう視線が緩く弛緩した。
小さく笑い声を立てた後、『名前はねーから、てきとーに呼んで』そんな風に言う主の甘い声に少しだけ考え。
『…、………シロ』
『ぶ、は……ッ!」
盛大に吹き出した主が、犬につける名前じゃね?と散々からかったが、それしか浮かばなかったのだ。
シロはバーの暗い照明の中を自由気ままに踊る、まるでこの店の主のように。

それをジッと眺めていれば、チリン、と戸に付けられている音が鳴り、最初の客が顔を出した。

「いらっしゃいませ」

無愛想ではあるが、狭い店内にきっちり通る声に客である3人の女性たちは色めき合う。
テーブル席のほうへ案内し、自分も本来の仕事場所であるバーカウンター内へと戻っていく。

それにしても主は遅い。
ちょっと、と言いながらもう小一時間は過ぎている。
しかしヤキモキしていても仕方がなく、テーブル席から注文されたオーダーを丁寧に仕上げていく。

ソルティドッグにはハーブの葉を、ジンバックにはオレンジの飾りを作る。
オレンジの皮の飾りは主が作ったものだが、華の様に広がるオレンジの皮に自分の未熟さを露呈した気分になり、少し惨めになる。
丹念にグラスの縁に塩を付ければ、ミモザにシャンパンのコルクを開ける。
ポン、と小気味のいい音に女性客が歓声を上げるが、職務に勤勉であるが故に、相変わらずの仏頂面で仕上げに取り掛かっていった。


(…あの、ロクデナシ店長がァアア!)

女性客に飲み物を運ぶと、手を拭いて店の外にある化粧室へと足を進める。
女性客は、アルコールを飲みながら談笑を始め、楽しそうにしている。
それに自分の腕に及第点を付けるわけではないが、少しホッとする。
まだまだ練習不足なんだと思う。
ステアなどで味が定まるものならいいがシェイカーを使用するものになると、味にばらつきが出る。
その味が気に入ったものは、何度もその酒を頼む。
その時に味が統一していなければ、その客はがっかりしてしまうだろう。

足を進めれば、店から右に5歩ほどの所に化粧室とは名ばかりの男性用、女性用と別れているわけでもない、タイルの敷かれた洋式の個室が2つきりの小さな化粧室がある。
奥に掃除道具入れ、右手に洗面台と鏡、そして左手に個室が2個だけだ。
綺麗に整頓されているそこは、俺が先ほど整頓したばかりのままだった、そう、…そのはずだった。


「…ん、…ぁッ」


2つのうち、奥の個室より、押し殺したような溜息交じりの声が聞こえる。
それは女性のもので、荒い息を吐きだすそれにすら、艶が混じっているように聞こえてしまう。
予想通りの展開に、俺は大げさに溜息を吐いた。
それはもちろん、中にいる人物に聞こえるようにである。

ガン、と戸を蹴飛ばしてやれば、「キャ」と女の悲鳴と、低く笑う男の声。
俺が化粧室に入ってきた時から、男の方は気づいていたらしい。

「多串君〜、…声、かけてよ、って頼んだじゃない?」

くくく、と低い笑みに混じる男の声は、店の主の声。
いつも通りに聞こえるが、それでも熱を孕んでいる様な気がして、眉根を顰めた。


「そんなこと言えた義理か?……店長。時間です、けどッ」

「あ、そんな時間?んじゃ戻るわ」


そうあっけらかんと返る声音にホッとしながらも、チリ、と胸の奥が焼ける音が響いた。




店の主は、店で飼っているクラゲのシロようにふらふらとしている。
悪く言えば貞操観念が低過ぎて、だらしない。
いや、良く言っても、貞操観念が低いのは宜しくない。
誘われれば男でも女でも相手にしているのだ。
銀髪天パの少し目立つ容姿に、赤い眸は印象的、声は甘くて間延びな言葉は少々癖になる。
そうして貞操観念が低過ぎて、緩い。そんな様子はダラダラとした普段では見えない。
ということは、扉の向こうでは、俺が見た事が無い、店の主の顔があるのだろうか。
それに少しだけ、胸に詰まるような思いは一体何なのだろうか。
しかし、現場はいつもこのトイレなので、呼びにいくのも手馴れたものだった。
一度ならずとも、扉を開けてしまい、驚いたこともあるが、今では扉を開けずとも何をしているのか、わかってしまう。
そうして、相手の人物に気を使うが故に外からこうやって音を立てる。
驚くから声を掛けろといわれたが、それは忠実に破っている。

なんとなく癪だからだ。



(…………、……なんなんだ、よ……)
そろそろ客のグラスの空く頃だ、戻らなければ。
そう気持ちを切り替えれば、化粧室を出て行こうとして呼び止められる。


「…ねぇ、トイレに使用中の札掛けといて?」


そう声音が甘く潜められて伝えられる。
それに眉を盛大に顰めれば、言う通りに札を掛け、荒々しく廊下に続く扉を閉める。
トイレからは不釣り合いな女の囀るような笑う声が聞こえたのが、耳に残る。
それを聞いた途端、足から力が抜け、その場でしゃがみこんでしまいそうな自分に驚く。

この感情は、自分に全く身に覚えのないものだった。


グラスは綺麗に磨かれ、アボガニー調のカウンターからは甘い葡萄の香り。
薄暗い照明にふわりと浮かぶクラゲ。


その世界の中で、俺は一体どういった存在なのだろうと思ってしまう。
気持ちを持て余したまま弾けるシャンパンのようなもの、だろうか。


そうして持て余したその気持ちにはまだ、気付かないでいる。





next Night…